自分には、やりたいことがありません。
いや、ないと言ったらおかしいのかもしれないけれど、「これだ!」と取り組める、いわゆる「情熱」というものがありません。
なので、休み期間とか地獄ですよね、宿題だけあって、やりたいことはない。
やりたいことを見つけたい!と思っているんですけれど、見つけないほうがいいんじゃないの?と思っている自分もいるんです。
それも、自分は感覚で生きようと思っているんです。
(今は感覚で生きられるようになろうと修行中です。)
ですが、その感覚は何も言わないんですよ。
ただ、エゴ(自分)だけが、なにかをやりたい、隙間を埋めたい、何かをやって注目されてみたいと思っているんです。
そして、大前提として自分は感覚が一番性格で、感覚に従うと最適な道に進めると確信しているんですね。
それも、自分はたまにスマブラをやるんです。
ですが、エゴの声で、隙間を埋めたい、暇だからやるという意気込みでスマブラをやると、たいてい負けるし、切断されるし、嫌な立ち回りをしてくる人に出会って、めちゃくちゃストレスがたまるんですね。
ですが、感覚から「やりたい」という感覚があると、たいてい勝てますし、気持ちいいし、楽しかった~って終われるんですね。
他に志望校選びもそうなんですよね。
自分は、中学受験の時、なんか新しそうだから~という、それだけの理由で入ったんですよね。
思考で考えていないんです、これはこう制服で、これはこういう特徴があって、これを表にまとめて比較して・・・って。
感覚で決めたんですよ。
そしたら、今ものすごく楽しい学校生活を送れているんですよね。
自分はめちゃくちゃ小柄だったので、もし受験に落ちてほかの学校に行っていたら、いじめを受けていたかもしれないし、不登校になっていたかもしれない。
でも、もしかしたら今よりものすごくいい生活を送ってるかもしれないけれどもね。
でも、それって、もしもの話で合って、実際にどうなるかはわからない。
「今」しかないんですよ、この世の中は。
仮定なんて、存在しない。
そんな感じで、感覚に従ったら、たいていうまくいくんですよね。
感覚に従うと、完璧で、最適な道に進ませてくれるんですよね。
それで、本題に戻りますが、自分は感覚に聞いても、答えが出てこないんですよね。(感覚が薄いだけなのかもしれないが)
ですが、いずれ感覚に従っていくと、「必要な時に必要なものが来てくれる」んですよ。
例えば、昨日の話です。
もうすぐ冬休みですよね。
ですが、自分はやりたいことがないので、何をしようか本当に悩んでしたんです。
もし何もやりたいことがなくてぼ~って過ごしていたら、おそらく鬱になるでしょう。
(というか前に長期休みの時になった)
ですが、昨日の夜、「あっ、そういえば前好きだったRIDDLERってどうなったんだろう?」と、ふと思ったんですよね。
RIDDLERって、謎解きの会社なんですよ。
自分はRIDDLERのおかげで謎解きが好きになったんですけれど、最近はその熱が冷めて、謎解きのことなど頭になかったんですよね。
それで、X(旧Twitter)で調べていたら、「本日19時にYoutubeライブをします!」というポストがあったんですよね。
「ほ?」と思い、実際に見たんですよ。
(本当は忘れてて30分遅刻したのは内緒)
そしたらね、お知らせの中で、新作が発売されます!というお知らせがあったんですよぉぉぉ!!!
すごくないですか、これぇぇ!!!
もう即買ってしまいましたね。
もし感覚に従っていなかったら、今もそのお知らせを見ることなく、退屈な冬休みをすごくことになっていたかもしれない。
感覚って、なんか宇宙とつながっていると、スピリチュアルの人たちは言ってるんですね。
自分はまだスピリチュアル初心者(なんそれ)なので、その意味がよくわからないのですが、こういうことなのかもしれませんね。
ちょっとめちゃくちゃずれてしまいましたが、戻すと、感覚でやりたいことがないのは、「それ相応の理由がある」のではないかなぁと思うのです。
自分は、今家族で暮らしているので、ボイスチャットとかできないんですよ。
うるさいからとかではなく、会話を聞かれるのが恥ずかしいので。
ほかの兄弟は余裕でボイスチャットしています。
それで、自分は大学生になって、一人暮らししたら、ボイスチャットとかで雑談したり、笑いあったり、叫んだりしてみたいなぁと思うわけです。
そう、やりたいことはないけれど、大学生になってやってみたいことはあるんですよね。
なので、それで「生きる目的」を、神様?大いなる自分?から与えられているのではないかなぁと、つくづく思うわけです。
もし生きる目的がなかったら、生きる意味がないので鬱になったり、自ら命を絶つ可能性もあるじゃないですか?
じっさい、未来が見えなくてなくなっている人もたくさんいますし。
それを、大いなる自分は感覚、エゴの自分さえも制御して、大学生活を楽しませるためにそういうことを図っているのかもなぁって、思うのです。
すべては、何かしらの意味があって、完璧なんですよね。
上の考察も、エゴの自分が考えたことであって、感覚では考えてない(感覚は考えないもの)ので、そういう意味ではないかもしれないけれど、いずれ感覚に沿って生きていたら、意味が分かる瞬間が来るかもしれない。
「あっ、あの時の苦痛はこの時のためにあるんだ」と思ったとき、大半の人はあると思います。
そんな感じで、全ては完璧な流れの中にいるんです。
そういう感覚とつながりたいけれど、エゴの自分につかまってしまうことも、完璧な流れのなかにあるのかもしれませんね。
エゴの自分は、何もわかりません。
感覚に、従うのみ・・・
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